ロシア・ウクライナ戦争がまだ、続いている。ウクライナ国民は、銃弾や砲弾から逃げ続け、中には不幸に命を落としてしまう方もいる。日本からすれば、遠い国の出来事で、ウクライナ国民に対して、心痛な気持ちになることは当然だと思う。
その中で、ウクライナ国民に対して、心だけでも寄り添う気持ちを表すために千羽鶴を折って、送ろうという動きがある。その動きに対して、有名人の中には痛烈な批判を加える者が出てきている。
2チャンネルの創設者で、論破王と言われれるひろゆき氏を筆頭にメンタリストのDaigo氏も痛烈に批判している。ただ、彼らは折り鶴に込める気持ちまで否定していない。むしろ、送る行為を批判している。
というのも、折り鶴を送ることで送る人が送られた人ともに心情的につながりがあり、応援しているという気持ちの表れであることは昔からあることであるが、外国や外国の大使館に送ることは本当にそれでいいのかということを前出の二人は言っている。日本だけでしか通用しないこの行為を外国の方に送って、それが伝わるのかということである。説明すれば、分かってくれることはあるだろうが、送る相手は、今、戦争の真っただ中にある。そういう緊急の時に千羽鶴を送って、相手が喜んでくれるのだろうか。命の危機に晒されている状態で、銃弾や砲弾から逃げた一般国民に対して、その寄り添いの気持ちだけを込めた折り鶴が歓迎されるのかと思うと、否定せざるを得ない。
心は否定することはできないというのではなく、その寄り添う気持ちをもっと、他の手段で表すことが必要なのではないかということである。
自然災害が発生して、災害直後にその被災者に対して、折り鶴を送って、送る側の気持ちを理解してもらえるのであろうか。
昔からよく言われることに「ありがた迷惑」という言葉がある。支援したり、寄り添う気持ちを表すために支援物資を送ることはとても良いことだが、その送られた人たちが「今、必要としている物」と相違が生じた場合、どのようになるか想像したことがあるだろうか。その点を前出の二人は言いたいのではないかと思う。「ありがた迷惑」にならないように相手の状況を考えて、自分の気持ちと寄り添う気持ちを表す支援をすべきではないかと思う。
非常に厳しい言い方をすれば、相手の状況に合わない支援や物資は、ありがた迷惑だけでなく、その支援が送る側の自己満足であると言わざるを得ないことになる。
送る前に本当にウクライナ国民に対して、本当に必要なものかどうかを相手の立場にたって、考えてから送るという気持ちが大切ではないかと思う。
